人生には、後先を考えずに動くしかない瞬間がある。
20歳の私がまさにそうだった。北海道北見市からヤクザの元亭主に付きまとわれていた女性を連れ、父親を頼って横浜へ渡った。
手持ちのお金も、仕事のあてもなかった。それでも行くしかなかった。
これは、昭和の横浜で始まった私の人生の話だ。
北見市——ハッカとビートと水商売の街
生まれは北海道白糠町だが、5〜6歳で北見市に移り、20歳まで過ごした。
北見市は人口10万人の活気ある街だった。
ハッカとビートの産地として知られ、小学校は東西南北の4校、それぞれ50人クラスが5〜6クラスある大きな学校だった。
中学もFクラスまであり、50人以上がひしめいていた。
一学年300人以上、それが東西南北4つの学校が合ったいわゆる団塊の世代だ。
水商売の店の多さは日本でも5本の指に入ると言われていた。
商売人が多く、活気があり、人が集まる街だった。
15歳で中学を卒業し定時制高校に通いながら社会に飛び込んだ後、バーテンダーを1年ほど経験し、やがてバンドマンとしてドラムを叩く生活が始まった。
ヤクザの元亭主から女性を連れ出した20歳の決断
バンドマン時代に知り合った女性と半同棲のような生活が始まり、その頃成人式を迎えた。
彼女には連れ子がいた。話を聞くと、元亭主はヤクザで、無理やり離婚させられた後も付きまとわれているという。
それならいっそのこと横浜へ行かないか
——そう持ちかけた。
子供は養子に出し、出稼ぎで横浜にいた父親を頼って二人で北海道を出た。20歳の決断だった。
4畳半のアパートから始まった横浜の生活
父親にわけを話すと、すぐに理解してくれた。私が最も尊敬する人間だ。早速4畳半のアパートを借りてくれた。
私は伊勢佐木町のカクテルコーナーで働き、彼女は近くの小さなドリンクバーに勤めた。日銭をもらいながらの生活だったが、二人で支え合いながら横浜での暮らしが始まった。
ピアノ運送・トラック傭車——お金を貯めていつか商売を
その後、ピアノ運送の仕事でピアノを担ぐ日々が始まった。
やがて2トントラックを購入し傭車になり、森永乳業の配送を請け負った。
当時のお金で月30〜40万円の収入があり、生活は安定してきた。
お金を貯めていつか何か商売をしよう
——その気持ちがずっとあった。この頃の貯蓄と経験が、後の起業への土台になっていった。
離婚届と、泣きながら眠った朝
しかしある日、妻が外泊して帰ってこなかった。
その頃妻はキャバレーで働いていた。キャバレーにはいい格好をした客が来る。
毎日トラックを転がしている亭主と比べれば、そちらに目が向いてしまうのも無理はなかったかもしれない。
翌朝早く、眠っている私のところへ妻が離婚届を持ってやってきた。
私は何も言わず、判を押した。
そして泣きながら眠った。
3年間一緒にいた。
養子に出していた娘を引き取り、家族として暮らしていた。
その全てが、その朝終わった。
それでも横浜に残った理由
離婚後、北海道に戻ることは考えなかった。
横浜にはすでに父親がいた。
仕事もあった。
そして何より、ここで生きていくと決めた自分がいた。
20歳で北海道を飛び出し、4畳半から始めた横浜の生活が、その後の17社・3起業・副業の全ての土台になっている。
あの日父親が借りてくれた4畳半のアパートがなければ、今の自分はなかった。
締めくくり
人生の転機は、計画して訪れるものではない。
20歳の私には計画も資金もなかった。
あったのは「このままではいけない」という直感と、頼れる父親だけだった。
あなたの人生にも、後先を考えずに動くしかない瞬間が来るかもしれない。
そのときは直感を信じてほしい。
私はそうやって横浜にたどり着き、ここまで生きてきた。


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