ヘッドハンティングから始まった転職
この会社に入る前は、ある広告会社でフルコミッション制の広告営業をしていました。
ある日、その広告会社の隣の会社の社長さんから「少し話がしたい」とお誘いを受けたのです。
その会社は、富士通の電話交換機の保守サービスを手がける、まったくの技術集団でした。しかし社長さんは自社の先行きを見据え、営業分野を広げたいという野心を持っていたようです。
フルコミッションで広告営業をしている私に目をつけたらしく、「自社で営業分野を立ち上げてくれないか」とのお誘いでした。
今で言うヘッドハンティングですね。
給与交渉と思わぬ誤算
私もフルコミの世界に多少の疲れを感じていたので、「固定給で月給30万円を保証してくれるなら」と条件を切り出しました。
同席していた経理の女性(後に古株のご意見番と知る)は、少し怪訝そうな顔をしていました。
おそらく、他の技術社員の給料と折り合いが悪い(少し高額)と思っていたのかもしれません。
私としては、フルコミでも取れない金額ではなかったので、「駄目なら駄目で・・・」という考えがったのです。
社長さんは減額の言葉も発せず「それでお願いします」と即決。商談成立となりました。
翌日には出勤することになったのですが、ここで失敗がありました。
私が「手取り30万円」のつもりで話したところ、経理の女性は「総支給額30万円」と捉えていたのです。
実際の手取りは所得税・社会保険料などが引かれて約25万円になってしまいました。
社長さんに相談したところ、話のわかる方で「プラス2万円」としてくれ、手取りは27万円になりました。
お金の話は、細部まできちんと取り決めておかなくてはいけません。
お金の話は、やはり切り出しにくいもの。
しかし決めるべきところは、しっかりと自信を持って話せる土台を持っておくべきです。
当時は、フルコミでも月に50万円の手取りを得たこともありました。
フルコミは、やればやっただけ自分に帰ってきますし、サボればゼロという結果もありえます。
それが、楽しくもあった!
だって誰にも縛られることはないし、収入が減ったらそれは自己責任です。
出社も自由、休日も自由なのです。
多分ネットビジネスでブログやSNSで収入が出てきた人は、理解できるでしょうね!
材料置場にポツンと置かれた私の机
入社してみると、私の机は材料置場にぽつんと一つだけ。電線や工具が山積みの部屋の窓際に、机と電話が置かれた寂しい空間でした。
会社は富士通の下請けとして電話交換機の保守点検をメイン事業とする、バリバリの技術集団8人・事務の女性1人・経理の女性1人・社長・そして私の計11人の会社。
技術社員から見れば「営業なんてろくなもんじゃない」という目で見られているようで、居場所のない日々でした。
朝出勤して隣の部屋に「おはようございます」と挨拶し、自分の机に座って一人で予定を立てる。
事務の女の子がお茶を持ってきてくれるのだけが救いでしたが、それでも居づらく、「行ってきまーす」と声をかけていつもの喫茶店へ直行し、ゆったりしながら戦略を考えるのが日課になっていきました。
FAXとOA機器の営業に挑む
富士通ショールームで商材を発掘
まず取り組んだのは「売るものはあるのか?」という疑問の解消でした。
六本木に出向き、営業担当者にショールームを案内してもらうと、FAX・OASYS(ワードプロセッサ)・電子ボタン電話交換機が揃っていました。
当時のFAXは、円筒に巻き付けた感熱紙に針を当てて発光させるGⅡ機が出たばかりで、1台30万〜50万円という時代です。
今では1万円台のプリンターに搭載されているのが信じられませんね。
不動産業界という突破口
FAXの販売先としてまず気づいたのが不動産屋でした。
物件の間取り図を業者間で共有するためにFAXは不可欠だろう・・・。
その読みは当たり、まもなくGⅢ機(1台130万円・重量20kg超)が主力商品となり、売れ行きも好調になりました。
ライバルはリコー・パナソニック・キャノン・シャープなど大手ぞろいで、特にリコーはコピー機市場をほぼ独占していた強敵でしたが、着実に販売実績を積み重ねていきました。
電子ボタン電話・交換機の販売へ
次に電子ボタン電話(616型)の販売に取り組みました。6回線・最大16台接続できるこの機種の設置工事には自社の技術者が入り、技術スタッフも少し得意げでした。
さらに電子交換機も手がけました。昔は大きな会社に「交換手」が複数配置され、外線をつなぐ役割を担っていましたが、電子交換機の導入によって交換手が不要となり、人件費を大幅に削減できる時代へと移行しつつありました。川崎のゼネラル電気(現:富士通ゼネラル)には交換手だけで十数人がいる交換室があり、その保守を我が社が担っていたのです。
電子交換機の案件は規模が大きく、技術陣も営業の力を認めてくれるようになりました。
Macintoshとの衝撃的な出会い
営業を続けるうち、「富士通の機器を扱っているのにパソコンに触れていない」という自己嫌悪が芽生えてきました。ある日、住宅設計士の事務所を訪問すると、机の上に小さな画面のパソコンが動いていたのです。
それが日本に入ったばかりのMacintoshでした。当時の日本はNECのPC-9801シリーズが全盛でしたが、私はMacintoshの方が気になり、2代目MacintoshSE(HD 20MB搭載・9インチ画面)をグラフィックソフト込みで68万円でローンを組んで購入しました。
マニュアルはすべて英語、教えてくれる人はゼロ。しかしMacの優れたUI(マウスでクリックする操作体系)に助けられ、後には家庭用セキュリティ装置の設計まで行えるほど習熟しました。このMacとの出会いが、後のデザイン広告会社起業への足がかりになるとは、当時は夢にも思いませんでした。
テレアポ部隊の結成と新ビジネスモデルの模索
一人営業部に仲間が加わる
ある日、社長が一人の若者を連れてきました。日体大卒で少林寺拳法を嗜むスポーツ万能のA君(20代前半)で、私(当時36歳)とはちょうど一回り違い。最初は自分の営業スタイルも定着していないなかでの新人教育は大変でしたが、非常に素直で飲み込みが早く、良い相棒になってくれました。
テレホンアポインターの導入
飛び込み営業の非効率さに限界を感じていた私は、社長に「広告費を出してほしい」と相談し、女性パートによるテレホンアポインター制度を提案しました。時給1,000円(当時としては破格)で5人を募集すると、すぐに集まりました。
MacでQ&A付きのマニュアルを作成し、アポ獲得から販売成立まで至った場合には売上の1%をボーナス支給するインセンティブも設けました。これが弾みとなり、FAX・OASYS・ボタン電話が次々と売れていきました。営業員も最終的に4人に増えていました。
レンタルビデオ店向けPOSシステムの開発
この頃、レンタルビデオ店が急増していました。貸出・返却・顧客管理に課題を抱える店舗向けに、オーダーメイドのPOSシステムを開発・提供しました。カードリーダーで顧客を特定し、貸出タイトル・料金算出・返却管理まで一元化したシステムです。
売上が百万単位になるとパートさんへのボーナスも数万円規模となり、「自分の担当営業に行ってほしい」という指名合戦が起きるほど組織が活性化しました。ただし、システムにバグが発生すると現地対応が必要になるなど、サポート面での負担も課題として浮上しました。
電話機レンタル事業──積み重なる収益を目指して
電電公社民営化という大きな波
1985年(昭和60年)、電電公社が民営化されNTTへ移行し、電話機は「レンタル中心」から「買い取り(自由化)」へと制度が大きく変わりました。
「毎日・毎月・毎年が一から始まるビジネスに限界がある。
「今日の成績に明日の成績が積み上がって残り続けるビジネスはないか」と常々考えていた私は、ここにストック型ビジネスの突破口を見出しました。
ファッション電話機レンタルの仕組みづくり
富士通製に限らず他社のファッション電話機も取り入れ、保守付きの電話機レンタルサービスを立ち上げました。
契約書・引き落としシステム・フロッピーディスクによる全銀行対応の口座振替プログラムまで自社で設計・開発しました。
引き落としは2ヶ月に1回(偶数月)にまとめ、手数料コストを抑える工夫も施しました。
横浜ニチイからイトーヨーカドー全店へ
設備とパンフレットデザインはもちろんMacで三つ折りで制作準備が整ったところで代理店募集の広告を打ちました。
ここで思いがけない出会いがあるのです。
ニチイでパートをしていた女性(40代の女性)が代理店になりたいと言う思いがけない応募。
この方がニチイの催事担当者と仲が良く、売上を見込んで電話機リースの話を持ち込み大展開。
担当者がぜひやらせてほしいと、大乗り気に・・・と
話はトントン拍子、広告費もニチイで持ってくれると願ったり叶ったり。
当時は・・・今でもそうですが新聞にスーパーのチラシってよく入っていますよね?
その片隅に「ファッション電話機展示販売」と僅かなスペースに掲載するだけですから。
横浜のニチイの催事コーナーで展示・レンタル募集を行ったところ、黒電話しか使ったことのない人々が人だかりをつくるほどの反響でした。
会場にこのくらいだろうと、折りたたみの長机と椅子を3人分用意していたのが長蛇の列。
慌てて長椅子追加に椅子追加、電話機の説明にレンタルの説明、契約書の書き方説明に大わらわ大盛況の開催初日でした。
何と言っても催事というのは店舗の目玉、集客の大チャンス。
スーパーは、お客さんに来てもらってナンボです。
これはコチラにとっても、同様です。
今は当たり前ですがYouTubeもその他のSNSも、ネットビジネスそのものが集客できなければ終わってしまいます。
それを見たイトーヨーカドーのバイヤーから連絡が入り、なんと本社にまで呼ばれる快挙になりました。
上大岡店を皮切りに関東のイトーヨーカドー全店舗で実施することになり、日産キャラバンで店舗を巡る日々が続きました。
月額150万円超のストック収益
契約は3年・5年の2種類。
月額数百円のレンタル料でも、契約数が積み上がると毎月の引き落とし総額は150万円超に達しました。
電話機の仕入れ・工事費を合わせても原価1万円程度で、約半年で原価回収でき、その後は代理店の支払いをしも、ほぼ全額が利益となる計算です。年間1,300万円以上の安定収入が見えてきました。
これこそが「積み重なる収益」の実現でした。
しかし、事業の継続には様々な課題もあり、このビジネスを置き土産に退職・起業へと進む決断をすることになります。
退職後の会社と時代の変化
私が去った後、その会社は電子交換機を活用した寮電話ビジネスを展開し、大きく成長したようです。
何十人もの寮生に対して数回線で対応し、部屋ごとに電話機を設置。
NTTの基本料金より安い月額料金を徴収しながら、通話料収入と新電電からのインセンティブも得るという仕組みだったようです。
携帯電話のなかった時代、「自室に電話がある」という付加価値は大きなインセンティブでした。
前会社事務所はビルの2フロアに拡張し袖看板も大きくなっていましたが、携帯電話の普及とともに部屋の電話は不要となり、現在その会社はありません。
時代の波とはそういうものですね。
おわりに──仕事は面白かった
この章は、私が一番長く勤めた会社での仕事の歴史です。傍から見ればハチャメチャな経歴かもしれませんが、この頃の仕事は本当に面白く、やりがいがあり、自分の思うように動かせた。何もかもが新鮮でした。
このブログで稼ごうという気持ちはありません。何もやることがなくなり、ただ何もない日々を過ごすことに飽きてきたのです。自分の過去を振り返りながら書くことで、自分の気をつなげていこうと思っています。
これを読んでおられる皆さんも、ぜひ自分の過去を掘り起こして書いてみてください。「自分にもこんなことができた」という発見と、再認識できる価値がきっと見つかるはずです。
長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。


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