スナック経営を始めた理由|20代で飲食店オーナーになった話

起業と失敗のリアル

【20代で城を持った話】スナック経営は「電車と五木ひろし」と共に!

皆さん、こんにちは。

20代の若さで「夜の城主(オーナー)」になった男、あっけです。

今日は、私がどうしてスナックを始めることになったのか、そして昭和の熱気の中で駆け抜けたドタバタ経営劇をお話しします。

1. そもそも「スナック」って何ぞや?

最近の若い方には馴染みが薄いかもしれませんが、私にとってのスナックとは、「ママやマスターという名の人生相談員が、カウンター越しに愛と酒を提供する地域密着型の社交場」のこと。

当時はカラオケ機なんて便利なものはありません。
今思えば、逆に新鮮だったと思います。

なんせカウンター越しの会話が全てであり接客の基本なのです。

「流し」のギターに合わせて歌うか、客同士が語り合うか。
ママの威厳、美貌、仕草ひとつがビジネスの根幹であり売り物なのです。

そして今よりもずっと、人と人の距離が近い場所でした。

2. 始まりは「駆け落ち」と「伊勢佐木町」

この経営話を語るには、まるで歌謡曲のような前日譚が必要でして……。

当時、3歳年上の訳あり女性と出会った私は、文字通り「汽車と電車を乗り継いで横浜へ」向かいました。

着の身着のままの駆け落ち生活。新生活のスタートは、まさに背水の陣でした。
落ち着いた先は、台所入れて4畳半と言う極貧の安アパートでしたね。

  • 妻:夜のクラブでバリバリ稼ぐ(時給+ドリンクバックで家計を支える大黒柱)
  • 私:伊勢佐木町のバーテンダー(夕食はおにぎり、夜食はオムライスの修行の日々)

伊勢佐木町のお三の宮付近では、1と6のつく日がイチロク祭りで人が出ていました。
現在もイチロク祭りは、現存しています。

夫婦(仮)の格差は歴然。「俺もいつかは……」と牙を研いでいた矢先、とんでもないチャンスが舞い込んだのです。

3. 包丁も握ったことがない「無茶振り」のオーナーデビュー

妻の手腕を見込んだオーナーから、「空いている店があるから、夫婦でやってみないか?」と声がかかりました。場所は元レストラン。

厨房はプロ仕様の3口コンロ。
「よし、料理は俺に任せろ!」と大見得を切りましたが、実は当時の私、包丁を握った経験すらほぼゼロ

ポークチャップやナポリタンを「見よう見まね」で作るという、今考えれば無謀すぎるスタートでした。

焦げたフライパンと格闘しながら、必死でお客さんの胃袋を掴み(掴み損ね?)にいった、当時の「あっけ特製メニュー」を振り返ってみます。

⇨ 鶏の唐揚げ:一羽丸ごと格闘編

仕入れは近くの精肉店。なんと、鶏を一羽丸ごと買い付けていました。ささみ、胸、もも、さらには紅葉(足)まで。内臓が体内に詰め直されたそのお姿を、自らぶつ切りにしていくワイルドなスタイルです。

味付けはシンプルに塩コショウ。溶き卵にくぐらせ、小麦粉を「これでもか!」とまぶしたら、いざ油の海へ。揚げたてのアツアツは、文句なしに最高でした!

⇨ フライドポテト:自画自賛の皮付きカット

じゃがいもは軽く洗って、縦にザクッ。さらに半分、また半分と6等分。尖った部分を丁寧に面取りして、そのまま油へダイブ! こんがりキツネ色になったら救出し、爪楊枝をブスリ。ケチャップを添えれば完成です。 外はカリッ、中はホクホク。「……うまい、天才か?」と、カウンターの中で自画自賛していたのは内緒です。

⇨ ポークチャップ:叩いて焼いてドンの潔さ

ステーキ用の厚切り豚肉を、トングで親の敵のように叩きまくります。塩コショウを振って、フライパンへ投入!両面が白くなったところで、ケチャップを景気よくドバッ! これだけで仕上がる、男気あふれる一品でした。

⇨ 秘伝(?)の自家製ドレッシング

付け合わせのサラダは、玉ねぎ、レタス、トマト、オリーブ。 ドレッシングは完全自己流です。オリーブオイル、すりおろし玉ねぎ、トマトジュース、米酢、塩コショウ。これらを、「アイスピックで蓋に穴を開けた空き瓶」に詰め込み、バーテンダーのごとくシャカシャカ振って完成!

⇨ 本格ピザ:イタリアンハウスへの潜入捜査

ガスコンロの下がオーブンだったことから、ピザにも挑戦。 しかし、ピザは甘くなかった……。そこで私は、当時福富町にあった洒落た店「イタリアンハウス」へ通い詰め、勝手に研究(偵察)を開始!

前日に生地をこねてイースト発酵させ、チーズは2〜3kgもあるゴーダチーズの塊をゴリゴリ削って使うという、無駄に本格的なこだわり。あのキャンティワインの空き瓶がぶら下がる店の雰囲気、今でも目に浮かびます。


当時は、水商売専門の移動販売車がやってきて、「はじかみ」や「マッシュルーム」をその場で現金買いしたり、おしぼり屋さんと「あそこの店の誰ちゃんが……」なんて世間話をしたり。

不器用な料理と、賑やかな人の交わり。
電車の騒音に負けないくらい、あの厨房は活気に満ちていました。

4. 個性が強すぎる「京急高架下」の立地

さて、このお店。家賃が激安だったのには、あまりにも分かりやすい理由がありました。 なんと、「京浜急行の真下」だったんです。

  • 電車が通るたびに、店内に響き渡る「ゴーッ」という轟音。
  • いいところでの会話は中断。
  • カウンターのグラスは微振動。

一見すると最悪の条件ですが、不思議なもので、お酒が入るとその振動すら「賑やかなBGM」に聞こえてくるから不思議です。

5. カウンター内の夫婦バトル

夫婦で同じ職場に立つということは、想像以上に過酷なものです。ましてやそこが「夜の社交場」ともなれば、話はさらに複雑になります。

実は当時、私たちが夫婦であることは「絶対機密」。表向きはあくまで、若きママと、それを支えるバーテンダーという関係を演じていました。

ママは26歳、私は23歳。 溢れんばかりの若さと色香を武器にするママを目当てに、今夜も男たちがドアを叩きます。

揺れるチークタイム、沈黙のカウンター

店はカウンター数席と、4人掛けのボックス席が2つ。ボックス席にお客さんが座れば、ママはスッと横に座り、華やかに接客をこなします。

しかし、事件はジュークボックスの前で起こります。うちの店は少し変わった造りで、ジュークボックスの前が6畳ほどのダンスフロアのような広さになっていたのです。

酒が回り、良い気分になった客は、甘いバラードを流し、当然のようにママの手を取り、チークダンスへと誘うのです。

プロ失格の「カウンター内バトル」

薄暗い照明の中、見知らぬ男の腕の中にいる「自分の妻」。それを見る私の心境は、まさに地獄でした。

「これは仕事だ」と言い聞かせれば聞かせるほど、嫉妬が暴れだします。

 

「あんなに密着する必要があったのか!」

「商売なんだから仕方ないでしょ!

狭いカウンターの中で火花が散る夫婦バトル。あの時のカウンターの傷跡は、二人で必死に「城」を守ろうとした、青く熱い時代の勲章です。

6. 突如現れた「未来の大物」五木ひろしさんの記憶

当時の思い出の画像

この店での一番の宝物は、1970年のある日の出来事です。「流しのけーちゃん」が連れてきた一人の青年。それこそが、デビュー直前の 五木ひろしさん でした。

彼は『よこはま・たそがれ』のLP盤を手に、一軒一軒頭を下げて回っていました。

そして、その場でギターに合わせて披露した歌声……。

狭い店内に響き渡ったあの魂の籠もった声は、今でも耳に残っています。

それから、レコードのジャケットをジュークボックスに自分で丁寧に貼っていました。

「よろしくお願いします。」といって、静かに店を後にしました。

数ヶ月後、テレビからあの曲が流れてきた時の衝撃!「あの時のお兄ちゃんだ!」と、店中のお客さんと大合唱した夜は、最高の瞬間でした。

7. 成功の証「ホンダN360」と突然の幕引き

経営は軌道に乗り、中古で「ホンダN360」を20万円で購入。

その後、日産サニークーペ1200GXを63万円で購入しました。20代の私にとって、それは最高の成功報酬でした。

当時の物価比較: 20万円のホンダN360が、現在の価値だとどのくらい?(およそ100万円〜?) 新車価格:N360AT・M〈サンルーフ〉:42万8,000円

 

しかし、終わりは突然やってきます。

都市開発による「高架下の閉鎖」。
隣近所の店が次々とシャッターを下ろしていく中、「ここが潮時だ」と悟りました。

最後に:スナック経営から学んだこと

この経験を通じて学んだのは、「環境が悪くても、人の魅力とプロの執念があれば商売は成り立つ」ということです。

電車の騒音も、素人同動の料理も、一生懸命に向き合えば「味」になる。そして、売れる前の五木ひろしさんが見せた泥臭さこそが、商売の原点だと確信しています。

やり直し、新しいことへの挑戦はいつでも出来ます。
始めようと思った時、あなたはその時が一番若い・・・のですから!

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